2月3日は節分です。
節分は本来、季節を分けるという意味で、二十四節気の立春、立夏、立秋、立冬を指していました。
季節の変わり目は体調を崩すことが多いので、先人たちは節分の前日に、病をもたらす鬼を祓うようになりました。
特に大切なのが立春なので、いつしかその前日を『節分』と言うようになりました。
季節の変わり目に体調を崩す原因は、多くの場合が風邪です。
だから、「鬼を祓う」というのは風邪を引き寄せない方策で、豆まきは無病息災を願う儀式であったわけです。
古来から『無病息災』は子や親を想う純粋な願いであったことでしょう。
今年の節分には、新型コロナウィルス収束の願いを込めるという方もいらっしゃるようです。
福豆のおはらい「今年こそ収束を」 (Yahoo!ニュースより)
ですが、私は『無病息災』を求めることはしません。
そこにはどんな哲学があるのか?
あなたが何か苦しみを抱えていたり、苦難な状況にいたりするなら、参考になるかもしれません。
この哲学は私が政治を志すに至ったひとつの理由でもあるのです。
新型コロナウィルスの話とは関係ありませんのであしからず。
■『無病息災』はあり得ない!
大前提として、人生に『無病息災』などあり得ません。
地震や台風がないなどあり得るでしょうか?
頭痛や肩コリにもならないなどあり得るでしょうか?
永遠に死をむかえないなどあり得るでしょうか?
苦から逃れることは不可能です。
それをお釈迦様は『四苦八苦』として呈示しました。
この「四苦八苦から逃れられない状態をどうするか?」という哲学が仏教なのです。
では、これはどうでしょう…
怖い思いを避け、嫌なことを避けていたら幸せになるのでしょうか?
人との面倒な関わりを避け、トラブルを避けていたら幸せになるのでしょうか?
ひたすら安息な心を求めていたら幸せになるのでしょうか?
勉強しないで第一志望の高校大学に入る方法、就職試験を受けないで好きな職業につく方法、恋愛の告白をしないで憧れの人と交際する方法など、決してありません。
試練を受けずに、幸せを享受することなどあり得ないのです。
「楽あれば苦あり。苦あれば楽あり」
■逃げないことで得るもの
ちなみに、苦ではなく痛みであれば逃れることは可能です。
傷の痛みは鎮痛剤や麻酔でとれます。
心の傷も、精神安定剤や抗うつ薬で消せます。
絶対にやってはいけませんが、自殺すればその場の痛みからは逃れられます。
しかし、その痛みからも敢えて逃げない。
すると、人の痛みを知ることができると気づきます。
苦しんでいるのは貴方だけではありません。
逃げると、なにも起こらないどころか、問題はもっと大きくなってしまいます。
原因を除去しないのですから。
だから、私は逃げない道を選んでいるのです。
心を鍛えなければ、安寧を得ることは出来ません。
嫉妬されたり、誤解されたり、あるいは騙されたりすることによって、心を筋肉のように鍛えるのです。
すると、どんな目にあっても動じない、不動の心の強さが宿ります。
可愛い子を大切に贅沢もさせて怪我が無いように育てると、ダメ人間になってしまいます。
「楽あれば苦あり」なのです。
「無病息災でありますように」「子どもがすくすくと育ち病気や怪我になりませんように」残念ながら、これが『苦』を生むのです。
だから、痛みから逃れず、むしろ痛みを呼ぶのです。
そうして、苦悩から解放されるのです。
■『無病息災』は我欲!?
もう一段、話を進めてみましょう。
「家族が無病息災でありますように」というのは小欲です。
小欲とは我欲のことです。
「自分さえ良ければいい」というのはもちろん、自分の子どもだけ、家族だけ、仲間だけ、地元だけ、自分の周りだけというのも小欲です。
それに対して、大欲とは「誰もが幸せになって欲しい」という欲です。
「争いのない社会が訪れますように」など、世界平和、人類のみならずすべての生物や宇宙が良くなって欲しいというもの、すごく大きな欲望です。
人間にとっての欲は、自動車でいえば排気量、つまり馬力に当たります。
馬力のある車は、人や物を運んだり、工場やダムをつくったりなど、いろいろな役に立ちます。
欲は巨大なエネルギーをもっています。
これをいかに使うかが大切なのです。
だから密教では、欲を肯定しますが、小欲は徹底的に排除します。
■我欲で、なにかを得たとしても…
小欲が上手くいったとしても、必ず何かのきっかけで崩壊します。
仮に、かつての芸能人や芸術家のように麻薬をつかってまで芸術を創造したとしても、それは小欲なので、行き着く先は…。
簡単に得たものは失いやすいのです。
試験前の一夜漬けは1週間経つと忘れます。
ギャンブルや宝くじで手に入れたお金はすぐなくなります。
中村天風師は書籍『運命を拓く』の中で、麓から三日三晩歩いて富士山を登ったのに比べ、冷房のきいたバスで数時間で行って帰ってきただけでは、苦しさ、楽しさは全く味わえていないと指摘しています。
精神的苦痛を得ながら見た景色や達成感は、時間が経てば経つほどに鮮明となり、むしろ研ぎ澄まされた感性として一生失うことはないのです。
精神的苦痛を経て得たものは、まず失うことがないのです。
そして、三国志の英雄、曹操の言葉
「天よ我に百難を与えよ」
求めるのは『無病息災』ではなく、『百難』なのです。
不肖わたくしこと吉野敏明は、大欲を抱き、精神的苦難を求めています。
なので、寝ないで食べないで休まないで、小欲を捨て、困っている人を助けたいというのが私の夢なのです。
わたしは自分の夢のために今日も働いているのです。
「これが大欲になればよいな」と、こんなことを節分に想っています。